光景ワレズANNEX

赤いソファを知ってるか 青いソファを知ってるか

母親が交通事故に遭ったときに、ぼくはスパゲッティを知った。

スパゲッティという食べ物がある。
今や国民的な主食のひとつとしてご飯、パン、ラーメンなどとともに我々の食生活の一翼を担っている。


ぼく(1980年生まれです)がこれを初めてメイン張った食べ物として食べた記憶は中学生くらいになってからな気がしていて、小学校の頃の食事に関しては母親の料理のレパートリーにスパゲッティは無かったと思う。

 

給食でナポリタンやスパゲッティサラダ的な料理は出ていたように記憶しているが、現代当たり前にあるペペロンチーノやボンゴレカルボナーラといったスパゲッティ代表メンバーみたいな面々(麺だけに!)も知らなかった。

 

Wikipediaによると1990年代半ばよりまともなスパゲティの調理法が日本の家庭に普及したとある。確かに自分の記憶とも一致しており、この時代は一部の先進的な都会人だけが本場みたいなスパゲッティを食べていたのだろう。群馬の片田舎のオバチャンの手料理レパートリーには当時そんなハイカラな料理は存在しなかったのだ。

 

余談だが、アボカドやマンゴーもぼくの中では「最近の食べ物」だ。こういうことを言うと「昔はバナナは高級品だった」とよくこぼすぼくらの親世代と同じようなことを言ってる感があるが、マジでアボカドやマンゴーは昔は見たことすらなかったぞ。どうですか。


話を戻すとナポリタンとは名ばかりのケチャップ麺やなんだか白いソースが絡めてやたら冷たいサラダ扱いの麺とは違い、初めて「まともな」スパゲッティを食べたのがいつなのかと考えたが、これは実はよく覚えている。これはそのときの話だ。

 

 

母親が交通事故に遭った。
ぼくが小学校4年か5年のときだ。夏休みで学校は休み、かつ別に意識高いお坊ちゃん家庭でもないのでただただ無為に一日中弟たちと家にいたのだが、そこに近所のおばさんが教えに来てくれたのだ。母親はパートに出ていて夕方に帰ってきてご飯を作ってくれるというパターンで、父親は普通に働いている。子供たちだけでさてどうしたものかと途方にくれたものだった。最寄りのコンビニですら2km以上離れてる田舎、かつお金を持たされているわけでもない、もっと小さい弟2人もいる、と長男のぼくは「自分が何とかしなければ」と何か責任感のようなものに目覚めたが、具体的な手段も能力もなかった。

 

その日の後のことはあまり覚えていないが、結局母親は色々なところを打撲していて数週間入院した。命に別状は無かったがすぐに帰宅できるようなレベルでもなかった。
お見舞いには数日おきに行っていた気がするが、当時の労働環境的には父親の会社的にも仕事優先だったのだろう、それほど頻繁にお見舞いに行ったという記憶はない。

 

我が家は就寝時間だけは妙に厳しかったので21時には就寝するようしつけられていた(ただし、『とんねるず生ダラ』の水曜日だけは特別に22時まで起きて良いことになっていた)。
だがこの事故での母親不在時期をきっかけに、22時過ぎの就寝を長男のぼくだけは毎日許されることになった。母親任せだった家事を父親がやるのでそれをちょっと手伝っていたこともあるが、ニュースステーション久米宏を見ながら瓶ビールを飲む父親と居間にいた時間をよく思い出す。

そして朝と夜は適当な食事で済ませていたのだろうか、特に記憶に残っていないのだが、この母親不在の期間の昼食のことだけは今も忘れられない。

 

親たちがどういう取り交わしをしたのかわからないが、昼食は「母親と事故った相手」が毎日持ってきてくれていたのだった。

 

母親と交通事故を起こしたのは、向こうも小さい子が2、3人いる若いママさんだったと記憶している。信号の無い交差点で一時停止側なのにそれを無視したその若ママが、うちの母親の軽自動車に横から突っ込んだかたちだ。過失割合でいうと若ママのほうが悪いと聞いた。向こうの子供さんの誕生日で急いでいたのか焦っていたのか……みたいな話もなんとなく聞いた。そういうときこそ得てして誰も嬉しくない事態が起きてしまう。

 

若ママはその責任もあってだろう、昼頃に自宅まで毎日来てくれた。車は修理中なのか自転車で来ていた。ぼくは長男として自宅に来てくれた若ママに応対する役目だった。基本的には調理済みのものをタッパーに入れて持ってきて、簡単に仕上げだけしてくれた。

 

その若ママのレパートリーの中で、数日に一回、スパゲッティがあった。
「こ、これは……!?」と動揺する。ぼくは見たことの無い麺だった。給食で出てくるのは先のとおりケチャップ麺か白麺だが、それとは別のプレーンな麺だ。
そこに別のタッパーに入ったソースをからめる。ミートソースである。麺作り置きという時点で本場っぽさは無いが、それでも当時のぼくの家庭からしたらかなり先進的な食べ物だった。
更に驚いたのが、「チーズが粉状になっているもの」である。察しの良い方ならお気づきかと思うが、現代のことばで言うと「粉チーズ」のことだ。これもこの若ママデリバリーによってぼくは初めて体験した。「こんなものが売ってるんだ……そしてかけるんだ……!」と衝撃だった。


こんなハイカラなものを作れるなんてうちのババア(失礼だし、多分当時の母親は今のぼくより若い)と違って若いママさんは違うな、と感心したものである。

 

思えば、自分の家の子供たちだって家にいるだろうに、同じものを毎日自転車で届けに来るのは結構負担だっただろう。そこまでされなくても昼飯くらい小学生なりに何とかできた気もするが、若ママさんには懺悔みたいな気持ちもあったのかもしれない。ぼくも事務的な応対だけであまり世間話とかしなかったが、もしかしたら若ママさんは自分がぼくらから恨まれてるとか思っていたのかもな。今となってはわからない話だが。

 

その後数週間で母親は退院し、若ママさんも家に来ることは無くなり、通常の生活に戻っていった。また、世の中一般的にスパゲッティがポピュラーになっていき、母親も作り置き上等のノーアルデンテではあるもののスパゲッティを食卓に出していくようになったのである。

 

ただ、ぼくは東京に来るまでスパゲッティ・イコール・ミートソースだと思っていたし、実際母親もミートソース以外作らなかった(※)。それ以外の味のスパゲッティの初遭遇はまだしばらく先の話となるのだった。
(※自作したオーマイコンブの茶スパは除く)

 

いずれにしても、ぼくのスパゲッティとの初遭遇はこんな体験と密接にリンクしているおかげで、今でも妙に意識してしまう食べ物のひとつなのである。

(おわり)